マツダの歴史

はじめに

マツダはロータリーエンジンやスカイアクティブテクノロジーなど技術のあるメーカーとして知られている。
 2002年からは「ZOOM-ZOOM もっと乗りたくなる。」をキャッチコピーとし、2009年には広島東洋カープの本拠地である「広島市民球場」の名前が、「MAZDA ZOOM-ZOOMスタジアム広島」に変更されている。そんなマツダの歴史について書いていこうと思う。

マツダはじまりである東洋コルク工業の誕生

1920年、広島産業銀行頭取の海塚新八が広島の財界人に呼びかけて設立したのが東洋コルク工業である。この東洋コルク工業が現在のマツダ株式会社の始まりである。海塚新八は設立から約半年で病気のため辞任し、松田重次郎に社長の座を譲っている。この松田重次郎が創業者であり、社名もこの松田からきている。松田重次郎は東洋コルク工業を1927年に東洋工業株式会社に変更している。
1929年から工作機械の製作を開始している。1932年には3輪トラックの初輸出を行い、1936年には3輪トラックで鹿児島-東京間をキャラバン宣伝している。

マツダの成長に欠かせない松田恒次について

1945年に広島市への原子爆弾投下があり、本社施設を広島県庁に一時提供している。
1949年には3輪トラックの輸出を再開している。2年後の1951年には松田重次郎の長男である松田恒次が社長に就任する。松田恒次は3輪事業だけでなく4輪事業にも進出し、ロータリーエンジンの開発も推進している。1963年にはマツダの大ヒットモデルでベストセラーとなる「ファミリア」を販売するなど、マツダの成長に欠かせない人物であり、広島東洋カープの初代オーナーである。

自動車事業が軌道に乗る

1970年に「ファミリア」が生産累計100万台を達成している。この年には松田恒次が死去したことに伴い、長男であった松田耕平が社長を就任する。また広島東洋カープのオーナーも継ぐこととなる。現オーナーである松田元の父である。
1972年には自動車生産累計500万台を達成し、急成長ぶりがうかがえる。

フォードとの資本提携がはじまる

1977年に松田耕平は会長となる。次期社長に就任したのは、初の松田家以外である山崎芳樹である。山崎芳樹はサンフレッチェ広島の前身である東洋工業サッカー部の初代監督である。1978年にはロータリーエンジン車の生産累計が100万台を達成する。翌年には対米輸出累計100万台を達成したことに加え、自動車生産累計が1000万台を達成する。また、この年からフォードと資本提携を結ぶこととなる。
1984年に社名を東洋工業株式会社から現在のマツダ株式会社に変更する。

大きな貢献を果たした山本健一が社長に就任

社名がマツダ株式会社に変更してから半年後に、技術者でロータリーエンジンの開発リーダーを務めていた山本健一が社長に就任する。マツダが1960年に4輪乗用車市場への参入を果たしたR360クーペの生みの親である。

根強い人気を誇る「ロードスター」の登場

1987年から通商産業省(現 経済産業省)出身でサンフレッチェ広島初代球団社長の古田徳昌が社長に就任する。1989年には現在も根強い人気を誇っている「ロードスター」が発売される。

マツダの経営危機を救ったフォードが経営危機に

1991年には住友銀行(現 三井住友銀行)出身の和田淑弘が社長に就任するが、バブル崩壊により経営が悪化する。経営不振を救ったのがメインバンクである住友銀行と長年提携関係を結んでいるフォードモーターである。
和田淑弘の次期社長からはフォード出身の人が4代連続で就任することとなる。
マツダの経営危機を救ったコンパクトカーのデミオの発売をはじめ、高級車市場からの撤退、軽自動車の完全OEM化などさまざまな経営体質の改善に努めた。その結果、2000年代に入ると販売不振に陥っているフォードとは対照的に業績の回復を果たすこととなる。
マツダの業績回復に大きな貢献をしたフォードは、以前はマツダの株式33.4%を保有する筆頭株主だったが、世界金融危機でさらに業績が悪化したフォードは資金調達のためにマツダの株式の大半を売却することとなる。

さいごに

洗練されたスポーティで走行性能が高いマツダの車は現在も人気が高く、特にマツダの主力となるコンパクトカーや低燃費車の人気が高いので、今後も成長していくと思われるメーカーである。
現在のマツダの社長は日本人の山内考である。今後もスカイアクティブテクノロジーなどの技術を活かし、ガソリン車で低燃費を実現する車を数多く輩出することが期待される。

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